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日本甜菜製糖株式会社 日本甜菜製糖株式会社は砂糖を主軸とする総合食品企業です。 メニュー コンテンツへスキップ 事業内容 事業紹介 砂糖・食品事業 飼料事業 農業資材事業 不動産事業 研究開発 その他の事業 知る・楽しむ ビート(てん菜)のこと 砂糖のこと お砂糖(ビート糖)ができるまで イーストのこと 使ってみよう! ビート資料館 採用情報 IR情報 経営方針 中期経営計画 決算ハイライト IR資料 電子公告 株主メモ IRカレンダー 株主優待 サステナビリティ情報 サステナビリティ方針 人権の尊重 マテリアリティ(重要課題) トピックス 製品 環境 農業支援 ひと 社会貢献 コーポレート・ガバナンス ESGデータ 会社情報 ご挨拶 パーパス 日甜アグリーン戦略 会社概要 沿革 事業所 関連会社 会社案内 トップ › 知る・楽しむ › ビート(てん菜)のこと › 甜菜とは? 甜菜とは? 舌に甘い  初めての方は、「甜菜」って何だ?と思われたことでしょう。甜の字は、「舌に甘い」と書きます。「甜菜」は北海道特産の、砂糖の原料になる植物です。砂糖といえば、「さとうキビ」を思い浮かべますが、フランス、ドイツなどのヨーロッパでは、砂糖といえば甜菜糖のことをさします。あまり知られていませんが、全世界の砂糖消費量の約30%、日本では約25%が、甜菜から作られた砂糖で占められています。当社の砂糖は、家庭向けには主に北海道で販売されているため、全国的には知名度が低いのですが、業務用に出荷された砂糖が、チョコや菓子、飲料類などを通じて全国の皆さまのお手元に届いているのです。 大根?  この甜菜、ビート(SUGAR BEET)とも呼ばれます。分かりやすいよう砂糖大根と説明することもありますが、どちらかというと外見はカブに似ています。この根の部分に蓄えられている糖分を取り出して、砂糖を作ります。見た目は大根やカブのようですが、分類上はほうれん草と同じヒユ科に属します。北海道では、まだ雪の多い初春に種を蒔き、苗を育て、雪解けを待って畑に移植、短い夏を経て成長し、収穫の秋を迎えます。北国の風にそよぐ青葉は、大地を緑のじゅうたんで敷きつめ、黄金色に輝く小麦やジャガイモの清楚な花とともに、北海道の代表的な田園風景を演出します。砂糖は正真正銘「舌に甘い」、100%ピュアなお砂糖です。   大地の恵み ほうれん草と言えばポパイでお馴染み、元気モリモリの代名詞。同じヒユ科の甜菜も様々な能力を秘め、実に有益な植物の一つです。甜菜のうち砂糖の原料とならない葉の部分は、畑にすき込んで緑肥として再利用されます。根の部分は砂糖の原料となるのはもちろん、その絞りカスはビートパルプと呼ばれ、雪に閉ざされる北国の冬の貴重な牛の餌として販売しています。「ビートパルプ」は、通常生あるいは乾燥したものですが、当社では独自に配合飼料工場を持ち、このビートパルプやビート糖蜜を原料の一部に使うなど特色ある配合飼料を生産し、道内で販売を行っています。また、砂糖を作る過程で生まれるビート糖蜜を利用して、イーストの製造販売も行っています。 機能性食品   この他に、甜菜が秘める様々な機能を生かし、天然オリゴ糖のラフィノース、調味料などに使用される食品添加物ベタイン等の生産を行うなど、新素材としての分野でも非常に有望であり、目下用途の拡大に努めているところです。このように捨てる部分のない甜菜は、まさしく北の大地の恵み、リサイクル社会を先取りした環境にやさしい植物です。   甜菜糖(ビート)の歴史 甜菜糖はドイツ生まれ 甜菜糖が発見されたのは、今から約250年前の1747年のことです。ドイツの化学者マルグラーフが、甜菜の根から砂糖を分離することに成功しました。甜菜は、カスピ海やコーカサス地方の原産で、家畜の飼料として用いられていた言われています。それまで、甜菜から甘い汁が出ることは分かっていましたが、これがさとうキビからとれる砂糖と、同じ成分であるとは知られていなかったのです。世界初の甜菜糖工場が設立されたのは、1801年のことでした。 育ての親はナポレオン  甜菜糖の製造が急速に広まったは、ナポレオンによる「大陸封鎖」がきっかけです。トラファルガー沖海戦でイギリス軍に敗北を喫したナポレオンは、イギリスとその植民地の物産を大陸から締め出しました。たちまち砂糖の価格は暴騰しました。そこで甜菜糖の製造が大いに奨励されたのです。 日本の甜菜はパリ万博から  日本で甜菜が初めて栽培されたのは、西欧に遅れること約半世紀余り、明治3年(1870年)のことです。西欧に追いつくことを最大の目標にした明治政府は、農業の近代化にも力を入れ、亜麻や大麦など西洋作物の種子を輸入しては、東京開墾局で試作させていました。甜菜もその一つです。当時大々的な開拓を図っていた北海道で、栽培を試みることにしましたが、いくら気候が似ている北海道といっても、そううまくはいきませんでした。転機となったのは、明治11年フランスのパリで開かれた万国博覧会です。明治政府からパリ万博に派遣された勧農局長松方正義(後に総理大臣)は、西欧諸国での甜菜糖業の隆盛を目の当たりにし、日本への本格的な導入を決意しました。帰国した松方は甜菜糖業の導入に奔走し、北海道の紋別(現在の伊達市)に官営の製糖工場が建設され、明治14年の1月に操業を開始しました。この官営工場は、やがて民間に移管され、道庁などの保護を受けながら営業を続けましたが、農業・工業の両面で技術が未熟だったため、明治29年には事業を放棄し、解散する羽目に陥りました。 札幌ビール園で乾杯  この間、明治21年には、道の援助により札幌に新しい製糖工場が建設されました。しかし、この製糖工場も紋別の工場と同様に事業としては成り立たず、明治34年には閉鎖されたのです。以後、細々とした試験研究を除き、甜菜糖業は約20年間にもわたり歴史の表舞台から姿を消してしまいました。この札幌製糖の工場は、後にビール工場として生まれ変わりました。これが、現在の札幌観光の定番スポット「サッポロビール園」の前身です。赤レンガの重厚なたたずまいの中、グイッと飲みほすビールはちょっとほろ苦く、しかし実に爽快です。 十勝(とかち)で復活  甜菜糖事業が再び歴史の舞台に登場するのは、大正8年のことです。北海道に甜菜を導入しようとした松方正義の夢は破れましたが、その子息松方正熊は帝国製糖社長として、甜菜糖業の企業化を企画、機が熟するのを待っていました。また、台湾で実績を積んだ糖業資本も、北海道・朝鮮・満州の甜菜糖業に強い関心を示しました。第一次大戦の戦勝国として、日本経済は活気を呈したことを受け、大正8年と9年に相次いで甜菜糖事業の新会社が設立されました。松方正熊が興した北海道製糖と、旧日本甜菜製糖の2社です。両社は、それぞれ十勝国の帯広と清水に工場を建設し、操業を開始しました。 甜菜糖業は約20年ぶりに復活しましたが、期待に反し現実は厳しく、両社とも創業直後から早くも経営難に陥るなど、苦難の道を歩みました。後に両社は実質的に合併して、現在の日本甜菜製糖に受け継がれています。 メニュー コンテンツへスキップ 事業内容 IR情報 会社情報 知る・楽しむ サステナビリティ情報 採用情報 お知らせ 廃掃法に基づく情報公開 お問い合わせ リンク サイトマップ ソーシャルメディアポリシー 個人情報の保護について ご利用規約 copyright©2022 Nippon Beet Sugar Manufacturing Co.,Ltd. all rights reserved.

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